2008.6.19
京都大学「縮小社会・縮小技術研究会」のみなさまへ
北尾 邦伸
 
 京都学園大学の北尾です.
 先日,出版社昭和堂の編集者にお会いした折,ウェンデル・ベリー(加藤貞通訳)『ウェンデル・ベリーの環境思想』(昭和堂,2008)という本をいただきました.

 この本は,成長・拡大社会をひきおこす工業的経済に対抗できる「アグラリアン(Agrarian:農的)」ヴィジョンの提示,農的生活者(アグラリアン)からのメッセージ,農的生活のすすめといった内容の本です.
 10年間続いてきた昭和堂発刊の雑誌「エコソフィア」(”Culture in Nature Nature in Culture”の副題をもつ)は,この6月刊の20号(その特集は「自然と共に生きる知恵を求めて」)をもって休刊に入るとのこと.
http://www.kyoto-gakujutsu.co.jp/showado/mokuroku/index/series/ecoso.html
次のステージでは,どのようなかたちで復刊されてくるのでしょうか.

 ところで,いただいたベリーの本から一部を抜粋します.
 「履歴から切り離された人間,場所および産物」とタイトルされた出だしの部分です.
[ 工業主義(industrialism)の第一の結果であり,また第一の必要条件は,人間,場所および産物と,それらの履歴との分離である.工業的経済に参加している度合いに応じ,我々は自分の家族,居住地,あるいは自分の食物の履歴を知らない.これはいわば一夜限りの情事の経済であり,文化である.「ああ楽しかった,でも名前は聞かないで」と工業的恋人は言う.同じように,工業的食べる人は,「朝食でお会いしましょう.その前にはあなたに会いたくありません.その後に思い出したくもありません」と都会的に洗練された豚に言う.
 こういった状況のなかで我々は多数の商品に取り囲まれているが,満足感は乏しく,何につけてもこれで十分ということがない.満足感が乏しいため,次々に新しい商品が際限なく産み出され,新しい商品は常に古い商品より大きな満足を約束する.だから,工業的経済において最も一般的に市場に出回っている商品は満足感であるといえる.またこの満足感という商品は繰り返し約束され,購入され,また代金を払い込まれるが,決して配達されることはないともいえる.他方,満足を知る人々は多数の商品を必要としない.
 絶えず満足感に飢えているという事態は,我々自身および我々の所有物すべてが,それぞれ我々自身の履歴および所有物自身の履歴から,切り離されていることと直接に,全面的に関わっている. ]

 考えてみれば,近代の科学は,普遍的で(場所性のない),客観的な(物語性のない)展開を志向してきました.
 そしてその成果としての科学技術は,工場という場所性を超越した環境を世界的・普遍的(?)につくり出し,工業生産物を大量生産してきました.「科」の学となる前の本来的な科学は,自然をリアリティをもってとらえる・「みたい,知りたい,わかりたい」のアートと深くつながっていたはずのもの(このことで,art- ificial の発生的意味も見えてきます).アートとサイエンス,アートとテクノロジー,アートと芸術(fine art),アートとデザイン,の関係がおもしろそうです.そして「文化としての技術」.
 なお小生は大学で「バイオ環境デザイン原論」なる講義を担当していますので,「デザイン」について考えざるを得ない立場にあります.イタリア・ルネサンスが生みだしたことば「デザイン」.フランスへ行って「デッサン」となったとのこと.意図することと輪郭を描く・かたちづくる,の両義をもった用語として.
 「思想としての地球」は,科学・技術の危機を照射しています.自己制御する契機をもたずに膨張・暴発する科学技術社会に対して,われわれは「縮小社会」をデザインしていかざるをえないのです.そして,デザインには「全体性へ」の視点を欠かせません.

 都合の悪い,ないしは未知の要素を外部に放り投げる余地が自然システム・自然のプロセスの側にある場合には,工場という環境をつくってのシステム化(工業経済)や地域システム工学といった形をとっての「成長」が可能でした.しかし,地球システムをつくりかえる地球システム工学が成立するはずがありません.「地球システムは科学技術の秩序に属さず,従って制御することができない『外部』の存在」(長崎浩,2001)なのです.ここに至っての科学技術は,地球システムの枠内で自然に順応するしかないのです.

 先ほどの本の引用をいま少しいたします.
[ 「大地に奉仕する」・・・奉仕(service)というと多くの場合,対立的関係を思い浮かべさせる意味合いの言葉なので,これは容易に誤解を招きそうな表現である.すなわち,召使い(奉仕者 servant)であることは服従することであり,利用される立場に身をおくことである.しかし,・・・もしも我々の生命が他者たちの生命と限りなく複雑に結びつき,我々の生活を特徴づけるコンテクストが,復讐心または悪意に満ちているというよりは,むしろ感謝と慈愛に満ちていると仮定するならば,奉仕することはまったく違う意味を帯びる.奉仕は人を卑しめる活動であるよりはむしろ,生命促進の本源的行為になる.奉仕は「共同の場所の技(art of the commonplace)」である.それは他者たちおよび大地との生活に入り,すべての繁栄を追求する技(art)である.技の労働は,説明しコントロールしたがる欲望のなかに潜在する還元的・道具的傾向と対照的な位置を占めている.技の労働は,我々のヴィジョン(世界観)を拡大し,我々すべてを包含し支える神秘と恵みに対してより誠実になるようヴィジョンを変貌させる.  この技(art)の先行必要条件は,我々の欲望を大地の尺度に合うよう飼い慣らすことである.しかしながら,我々の主要な文化的機関はこの課題に取り組む準備を施してはくれない. ]

 「飼い慣らす」!  そういえば,『星の王子さま』のキーワードは,「飼い慣らす(アプリヴォアゼ)」でした.自然保護の原点.
 自然の保存(pre-servation)も自然の保全(con-servation)もserviceをめぐる関係概念だったのです.
 なお,この本の原書タイトルは「The Art of the Commonplace」です.

 こうもあります.
[ 農的心(アグラリアンマインド)は,耕作地への愛情に始まり,よい農業,よい料理,よい食事,・・・ 工業的経済の精神は,忘恩に始まり,農場と森林の破壊に枝分かれする.農場や森の「低級な」また「卑しい」技(art)は,「芸術(fine art)」の文化によって,また「精神的な(spiritual)」宗教によって,たいていは軽視されるか無視される.それらは,工業経済の権力によって軽視または無視,あるいは蔑視される.しかし実は,技(art)は必然的に人間の生活と文化にとって基盤である.そしてそれらの技に熟練する者は,他の者と等しく深い満足と高度な到達を成し遂げる能力を有する人々である. ]

 芸. 本来の字は「藝」.ご一緒したあるシンポジュウムで元東京芸大学長の澄川喜一さんが,藝という漢字はもともと農業の意味.耕して,愛でて,育てる(感動をともなうものとしての)農業が創作の原点にあるのはヨーロッパでも同じ(agri-culture),と話されていました.高額の代金を払って山梨県立美術館がミレーの絵画「種まく人」を購入したが正解,とのことでした.

 なんの芸も,自在に生きる術も身につけていない,わたくし.
 しかし,この本を味わうことはでき,少しは,「足を知る」ことを知りました.
 もう少し書きます.
 菅原努京大医学部名誉教授や竹下賢関西大学教授が催されている「全体論的評価法研究会」(複雑系の科学,免疫力,癒し,景観,おいしい水・・・などを切り口とした「全体への視線」・新たな評価法を求めて)というのがあり,12月に国際シンポが企画されています.その準備されているポスターのシンボル写真は,龍安寺の「吾唯知足」と刻まれた蹲(つくばい).「知足文化」が近年いわれだしているとも聞きました.わたしも,「全体性としての森」という視点からレポートするようにと催促されています.縮小社会研究会の問題意識と重なってきます.

 ながながと書きました.すみません.