2008.8.11
経済の縮小について
宇仁 宏幸
 
 経済学では,主流派,非主流派を問わず,「経済の縮小」という概念はほとんど使われない.おそらく大部分の経済学者の視野の中には,このような観点や課題は存在しないだろう.マルクスが『資本論』のなかで,「拡大再生産」との対比で「縮小再生産」に触れている程度である.しかし,それも思考実験の一環であって,マルクスの主要関心は「拡大再生産」の分析にある.経済学者の関心が経済成長(「持続可能な」という形容詞がつく場合もあるが)に向かう理由は,資本主義という現代世界の主要な経済システムそのものが,「成長」という基本的特性をもつからである.
 労働生産性(労働1時間当たり産出量,主として技術的に達成される生産効率を表す)という経済変数があるが,その上昇テンポは,資本主義になると増加する.たとえばイギリスでは,資本主義が確立する以前の1700〜1820年の労働生産性上昇率は年率0.3%であったが,資本主義確立後の1820〜1987年には年率1.7%に高まった.労働生産性上昇率が年率0.3%の場合,もし労働力人口と一人当たり労働時間が不変である場合,100年たつと,経済規模は1.3倍になるだけである.年率1.7%の場合,100年たつと,経済規模は5.4倍になる.日本でいうと江戸時代と明治維新以降を比べればイメージがつかめるだろう.
 なぜ,資本主義になると,労働生産性上昇率つまり技術的な生産効率の上昇率が高まるのか.資本主義の成立が産業革命や科学技術の発展期とたまたま重なったという考え方もありうるが,そのような考え方は次のような歴史的事実によって否定される.「社会主義計画経済」というシステムが資本主義と併存した時期があるが,「社会主義計画経済」の成長力は,資本主義と比べるとかなり小さかった.資本主義経済の成長力は,資本主義の外部で起きる科学技術発展にもとづくのではなく,資本主義のしくみの内部にビルトインされていると考えるべきであろう.
 資本主義が成立するための不可欠な条件のひとつは,自由競争的商品市場の形成であり,もうひとつは,生産手段をもつ資本家とそれをもたない労働者の形成であるといわれる.市場原理主義などでは,市場の機能としてもっぱら財の効率的配分が強調されるが,市場の機能として重要なのは,企業に対して技術革新のための努力を強制するという機能である.技術革新を怠る企業は「社会主義計画経済」では存続できても資本主義では生きていけない.また,労働者が生産手段をもたないということによって,経営者や管理者,技術者の一般労働者に対する指揮命令権が,有効なものとなる.つまり解雇の脅しという究極の手段があるから,大規模な生産システムや企業組織全体を少数の経営者や管理者,技術者がコントロールできるのである.
 結局,このような二つのしくみをそなえている資本主義という経済システムのもとでは,長期的平均でみて,年率1.5〜2%程度の労働生産性上昇が起きるのはほぼ当然と考えられる.つまり,資本主義では,もし労働力人口と一人当たり労働時間が不変である場合,100年たつと,経済規模は4.4〜7.2倍になる.成長力が劣っていた「社会主義計画経済」諸国の大部分は,資本主義に移行した.また,上記の二つの機能が不完全であった南アメリカやアフリカ諸国なども,近年これらの機能を整えつつある.このままいけば,かつてなかった世界的規模での「成長社会」が到来するだろう.
 経済規模の成長を止める,あるいは経済規模を縮小するにはどうすればいいか.ひとつの方法は,資本主義をやめることである.しかし,資本主義に代わる経済システムはありうるだろうか.「封建制」や「社会主義」は,成長力が劣るという点では評価できるかもしれないが,別の欠点が多すぎる.資本主義に代わる経済システムの探求はかなり長期的な課題である.経済規模の成長を止める,あるいは経済規模を縮小するための,もうひとつの方法は,資本主義のもとで労働力人口あるいは一人当たり労働時間を減らすことである.労働力人口の政策的コントロールは様々な問題があり限界があるが,一人当たり労働時間を減らすことについてはそのような制約はない.年率1.5〜2%程度の労働生産性上昇が起きる資本主義のもとでも,それと同率で一人当たり労働時間を減らすならば,経済規模は拡大しない.労働生産性上昇率を超える率で労働時間を減らしていくと,経済規模は縮小する.前者の場合でも,現在の日本の年間労働時間約2000時間は,100年たつと,270〜440時間に縮小することを意味する.一人が生産し消費する商品の量は現在と変わらないが,労働時間と自由時間の割合は,現在とは逆転することになる.このような社会は実現可能だろうか.どのようにすればこのような社会に移行できるのだろうか.これから考えたいと思う.ちなみに,ちょうど150年前に,マルクスもこのような点について考えた形跡があり,『経済学批判要綱』という草稿の一部分に,「自由時間論」とよばれる考察を残している.